喪失

朝、友人を銀行に送っていく時、道の傍らにこんな標語があった。
「万引きは 物は手に入れても 自分の心は失う」

中学三年手塚某さんの作った標語である。掲げたのは別の人だろう。

この手塚某さんは、万引きをやったことはあるのだろうか。やったことがあるのなら、説得力は一応ありそうな気がする。しかしその場合、手塚某さんはすでに心を失っていると自覚があるのであり、そんな人が何を言おうと信用することはできない。

一方手塚某さんが万引きをやったことがない場合、やったこともないのに心を失うなどと過激なことを言い切ってしまっていいのか。

実際には、手塚某さんが万引きをやったかやってないかはどうでもいい。どちらにしろ、学校で標語をつくることを強要され、万引きはよくないという社会通念を利用し、うまいこと書いたつもりで提出したのだろう。

もしかしたら、手塚某さんは万引きをやったことがあるかもしれない。いや、現在もやり続けていると、僕は直感で確信している。そうでありながら、万引きをやってはいけないと標語をつくり、しかも心を失うとまで断言している。

恐ろしい。恐ろしい。何がそんなに恐ろしいのか。

この標語の対象は、万引きをやろうとしている人ではなく、輪郭のない社会一般であり、万引きをする人を一方的に断罪しようとする気意を高揚させるのが目的である。そのことが間接的に万引きの件数を減らすのかもしれないが、それよりもっと恐ろしいものを生みだそうとしていることに掲げた人は気づいていない。

社会が怖いとかそういうことではない。うまく説明できないけど、強いて言えば、心にもないことを堂々と言葉にすることが恐ろしい。それこそが心を失うということであり、心を失っているのは、手塚某さんと、それに気づかず彼女を利用している掲げた人である。