「なぜ人は人を殺してはいけないの?」と疑問を投げかける人に対し、その人を心底納得させる答えはこの世のどこにも存在しない。頭を捻りこの上なく整然とした理屈をいくつ並べ建てたところで徒労に終わること間違いなし。

そもそも当初の問いからして意味がない。誰も人を殺してはいけないなどと言ってないし、言ってるとしてそれをどこまで信じ抜くつもりなのだろうか。殺せと言われたら殺し、殺すなと言ったら殺さないのだろうか。「その都度必要になったら自分で考えよう。考えて済むことならば」とせいぜい言うしかない。そしてああつまらないことを言ってしまったという後悔の念に苛まれるしかない。最良の策は、そのような問いを投げかけられそうになったらすぐにその人の口を塞ぐことだ。

カポーティの随筆に出てくるフランス語で良い太陽という本名を持つマンソンファミリーの一員であるボンソレイユという男の言葉「すべてはまわりきたった」は、これは現実に起こってしまったことは何もかもが善であるという意味である。狂っているなと感じる。だがそういう考え方もあることは、しかたない。彼が言ったのは「誰の抱えるどんな責任も放棄する」と言って自分の抱えた責任を放棄するための理屈だろう。しかし、どれほどいびつな出来事があっても次の瞬間には誰も覆すことのできない秩序によって飲込まれてしまうのは事実だから。