小春日和

雑誌「倫敦」を読んでいる。ロンドン、ロンドン、ロンドンコーリング。だがしかしここはロンドンではなく、南半球の何処かの田舎。

小さな駅のすぐ前には河が在る。白いような薄緑いような河だ。僕の昔の記憶のように濁っている。

中村雅俊は、兄として、叔父として、保護観察者として、よくしてくれている。今は河にボートを停めてロープで繋いでいるところ。

この小さな駅に住んでいるのだ。駅は公共の場だが、堂々と暮らしているものだ。

雑誌「倫敦」を読んでいる。これは個人が創刊した雑誌で、読者は僕一人だけである。雑誌の創刊者である女は写真家であり、世界各国を旅行し、自分で撮った写真を雑誌に載せて瞬時に僕に届けている。

彼女は死んだ。それが何故わかったかというと、死んだところが写真に写っているからだ。

日本時間の18時26分頃、彼女の乗った飛行機はミャンマーの山中に墜落した。

なにせ死の寸前までの表情が一枚一枚に収められているし、死んだ直後のバラバラに千切れ飛んだ肢体も単なる事実として捉える冷静なジャーナリスト的視点でやっぱりここはアートを感じさせない方が正解であって、凄いなあ。でも怖い。

「倫敦」という雑誌はこれにて廃刊です。とあとがきまである。表紙は、濃紺の無地に白のぶちぬき。僕はその雑誌の肌ざわりを頬にすり寄せて確かめる。

動悸が激しくなって苦しい。カラーとモノクロが交互に入れ替わる。駅前の河は瞬間的に爆裂する。巨大な鰐が現われて中村雅俊に食らいつき、共に水中に消えた。

this broken heart

切ない夢を見た。

真っ暗闇の夜の中、無限に広がるスタンドの敷地内で、給油機がデタラメな位置に乱立して数字を発光している。僕はそこら辺でタオルを集めて洗ったりたたんだりして黙々と働いていた。

仕事が終わり、そのまま社員と旅行することになり、山の上の宿泊施設へと向かった。

目的地に着いてみると、そこには僕の家族や親類、友人等が全員集合していた。何がなんだかわからないでぼんやりしていると、僕は注目の的となり、祝福されていた。ビッグサプライズ。

どうやら僕は結婚するらしい。知らない間に決められた。相手は、仕事の重要な取引先であるK組の社長の娘である。まだここには来ていないが、これからすぐ式をあげるらしい。

式場は、この宿泊施設がある山を少し下ったところにある小高い丘である。準備はまだ進行中である。ということで、僕も手伝わされて、宿泊施設と式場を行ったり来たりした。とっくりとおちょこを持って。

そこへとうとう僕の花嫁が、その両親と共に現われた。日本人だけどロシア人みたいで、うまく言えないけど変な顔だった。ますます複雑な心境になってきた。

やっぱり遠くへ逃げようと思い、裏の階段をずうっと下って、小さな橋を渡って、走り続けた。

しかしいつの間にか式場へと向かう両家の行列の中に合流してしまっていた。ちゃんと袴を着て花嫁の手を握り歩いている自分の姿を見て、うわあなんか絶望的な気分だなあと諦めそうになった。

すると、ずっと向こうに見える山の竹藪がガサッと音をたてて揺れた。また揺れた。だんだん激しくなっていく。ガサッガサッガサッと大きな範囲で縦横無尽に動く何かがいる。行列がざわめいている。天狗?

次の瞬間、無数の瓦が、こっちをめがけてすごいスピードで飛んできた。

ひぃいいいい
きゃああああああ
うわぁああああ
ぎゃああああ

今まで聞いたこともない生々しい叫び声が起こっては、すぐに消えていく。飛んでくる黒い瓦は正確に、ひとつずつ、行列に参加している人々の首を刎ねていった。

天狗は、実は昔から僕の心の友なのだった。僕の気持ちを察してやってくれたのだろう。でも、やりすぎだ。

僕は花嫁だけは助けてやろうと思って、制止しようとした。だが、それは目の前に彼女の首が転がった後だった。

なぜ助けようとしたかというと、手を握って歩いているうちに彼女の優れた性質がじわじわと伝わってきて、少し好きになってきて、これから一緒にどこかへ逃げてもいいかなあと思い始めていたからだった。

たくさんの恐怖に歪んだ顔が転がる中で、彼女の無表情な顔はとても美しかった。

喪失

朝、友人を銀行に送っていく時、道の傍らにこんな標語があった。
「万引きは 物は手に入れても 自分の心は失う」

中学三年手塚某さんの作った標語である。掲げたのは別の人だろう。

この手塚某さんは、万引きをやったことはあるのだろうか。やったことがあるのなら、説得力は一応ありそうな気がする。しかしその場合、手塚某さんはすでに心を失っていると自覚があるのであり、そんな人が何を言おうと信用することはできない。

一方手塚某さんが万引きをやったことがない場合、やったこともないのに心を失うなどと過激なことを言い切ってしまっていいのか。

実際には、手塚某さんが万引きをやったかやってないかはどうでもいい。どちらにしろ、学校で標語をつくることを強要され、万引きはよくないという社会通念を利用し、うまいこと書いたつもりで提出したのだろう。

もしかしたら、手塚某さんは万引きをやったことがあるかもしれない。いや、現在もやり続けていると、僕は直感で確信している。そうでありながら、万引きをやってはいけないと標語をつくり、しかも心を失うとまで断言している。

恐ろしい。恐ろしい。何がそんなに恐ろしいのか。

この標語の対象は、万引きをやろうとしている人ではなく、輪郭のない社会一般であり、万引きをする人を一方的に断罪しようとする気意を高揚させるのが目的である。そのことが間接的に万引きの件数を減らすのかもしれないが、それよりもっと恐ろしいものを生みだそうとしていることに掲げた人は気づいていない。

社会が怖いとかそういうことではない。うまく説明できないけど、強いて言えば、心にもないことを堂々と言葉にすることが恐ろしい。それこそが心を失うということであり、心を失っているのは、手塚某さんと、それに気づかず彼女を利用している掲げた人である。

無印の他の人たちと同じように、自分もまた、特定のあなた等から見下げ果てられるというような、究極の挫折を味わう可能性があるということを微塵とも考慮できず、何時までも調子よく楽観したままで、余裕をこいて、馬鹿みたい、な雰囲気を纏ってしまっていることを感じられていない、という烙印を遂に押されてしまう、という風にして、無印の他の人たちと同じように、自分もまた、特定のあなた等から見下げ果てられるというような、究極の挫折を味わう可能性があるということを微塵とも考慮できず、何時までも調子よく楽観したままで、余裕をこいて、馬鹿みたい、な雰囲気を纏ってしまっていることを感じられていない、という烙印を遂に押されてしまう、という風にして、無印の他の人たちと同じように、自分もまた、特定のあなた等から見下げ果てられるというような、究極の挫折を味わう可能性があるということを微塵とも考慮できず、何時までも調子よく楽観したままで、余裕をこいて、馬鹿みたい、な雰囲気を纏ってしまっていることを感じられていない、という烙印を遂に押されてしまう、という風にして、三度で終わるこのループを披露したところで、こんなところで今日は良い。こんなところで今日は良く、僕のことではないことを証明するために閉じ込める。

「なぜ人は人を殺してはいけないの?」と疑問を投げかける人に対し、その人を心底納得させる答えはこの世のどこにも存在しない。頭を捻りこの上なく整然とした理屈をいくつ並べ建てたところで徒労に終わること間違いなし。

そもそも当初の問いからして意味がない。誰も人を殺してはいけないなどと言ってないし、言ってるとしてそれをどこまで信じ抜くつもりなのだろうか。殺せと言われたら殺し、殺すなと言ったら殺さないのだろうか。「その都度必要になったら自分で考えよう。考えて済むことならば」とせいぜい言うしかない。そしてああつまらないことを言ってしまったという後悔の念に苛まれるしかない。最良の策は、そのような問いを投げかけられそうになったらすぐにその人の口を塞ぐことだ。

カポーティの随筆に出てくるフランス語で良い太陽という本名を持つマンソンファミリーの一員であるボンソレイユという男の言葉「すべてはまわりきたった」は、これは現実に起こってしまったことは何もかもが善であるという意味である。狂っているなと感じる。だがそういう考え方もあることは、しかたない。彼が言ったのは「誰の抱えるどんな責任も放棄する」と言って自分の抱えた責任を放棄するための理屈だろう。しかし、どれほどいびつな出来事があっても次の瞬間には誰も覆すことのできない秩序によって飲込まれてしまうのは事実だから。

タンス

友人の家に遊びに行って、どこやかし探索していたら、タンスの引き出しや戸棚やその他いろんな場所からぞろぞろと犬や猫が出てきた。その中にはとてもチッコいのが何匹かいて手の平サイズでみゃーみゃーと鳴いていた。ものすごく変わった形の猫もいて、胴体がムカデのようになっていた。気持ち悪くて放り投げてしまった。それぞれ元の場所に戻そうとしたけど、ごちゃごちゃと動き回って捕まえきれず、なんとかなると思って、そのまま放置して帰った。

次の日、僕は町の不良グループに洞窟のような所に呼び出され、脅しをかけられていた。最初は何かの間違いだと思った。僕は何も悪いことはしたことがないし、調子にだって乗ってないと思いこんでいた。しかし、1匹猫が足りないことが暴力の原因であることがわかった瞬間、何をやられてもしかたがないと思った。あのムカデみたいな猫だろうか。それとも他の小さな猫か。頭のボケた犬か。

強烈な罪の意識を抱えたまま目が覚めた。